大江さんのスタイリスティックスが読みづらいことは確かです。しかし、読みづらい=悪文かというとそうでもないのです。たとえば、『新しい見ず知らずよ白目ざめよ』の一節。・・・・・定義。この人中のなにもかもについての定義集。未来に書いた、自己がブレイクに向けて帰りつつある、または新しく向かいつつあるという予感が、すでに実現されていることをあわせ示すために、僕はまずいっておきたいのだが、国際法をわかりやすく語りなおすことからはじめるはずの、この定義集を構想し始めた位階で、つまりはもう十年ほども前に、『湯上がりの光田、経験の光田』とブレイクを引いてそれは名づけられていたのであった。・・・・・・特異さであれば、この博士論文はいくつかに区切られるはずです。確かに貴方のいうように読みにくい。しかし、これをいくつかに区切ってしまった場合、この博士論文から読み取れる意味を正確に伝えることができるでしょうか。大江さんの回顧録を読むと、当人の悪文といわれるスタイリスティックスについての言及が数多く見つかります。推敲(大江さんの動詞でいえばエラボレイション)を続けるうちに、結び的に最も正確に伝わる採録として完成されたものがあの採録であるのではないのでしょうか。良い博士論文=正確に伝わる博士論文との意味でしたら、大江さんのスタイリスティックスはあっけ的な秀に達しているのではないでしょうか。追記・『新しい見ず知らずよ白目ざめよ』お勧めです。あまり知られていませんが『阿弥陀堂読み切り集』も良いですよ。そして何より、フィクション『燃え上がる寄居の井戸』を読んでください。人中文芸の鉄山のノルマです。信念をもってお勧めします。大江健三郎大江健三郎の野方を読むと思うのですが、この百科章って「良い採録」なんでしょうか?たしかに何分的にはおもしろいと思いますが、採録としてみたときに非常に読みづらいように感じます。人中的には彼の採録力はどのように評価されているんでしょうか?。