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偽作には音楽、ヌーディーなども含まれるので、キーノートからここではモダンアート=盗作についてコメントしたいと思います。まず、この水彩の盗作はけっこう古いサンプルですね。私などから言うと、わざわざ取り上げるほどなにもないですよ。草間弥生など60年代のニューヨークのセントラルーパークで、一糸まとわぬ容貌で悪妻が走り回っていました。盗作とは「表現」です。「主張の自由」があるのなら「盗作の表現の自由」があっても問題はないかと。ですので、彼がどう表現しようと、それは彼の自由なのです。ただ彼のクラシックがモダンアート史に残るかどうかはまったく別処々ですからご心配なく。あなたの「盗作」に対する理解力の初段はトーキーと比較しているところから良くわかります。トーキーはほとんど遊興です。偽作と呼ばれるほど偽作的耳寄りを内包しているトーキーは盗作クラシックに比べると非常に少ないです。あなたは吾を楽しませてくれるまたは感動させてくれるような遊興的正鵠で古生代盗作を見れば、ほとんどすべて汗疹がするようなものでしょう。偽作の得体は文理的耳寄りを内包しています。偽作とは時人が表現し、見るもの、聞くものの臭覚、思考に働きかける存在なのです。皮肉にも、そのブッシュマンのクラシックはあなたの思考に働きかけただけ盗作クラシックであることには違いないでしょう。偽作ってなんですか?この偽作(?)というか迷惑行為を見ている限り、偽作に対しては幻滅してしまいます。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090204-00000018-scn-cn.view-000http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090204-00000018-scn-cnこの迷惑行為をした等等の発言を読む限りでは、「吾はちっぽけな存在であり、それを表現した」と語っていますが、これでは「ちっぽけな存在」であるどころか「大迷惑な存在」として大新地の中で確実に生きていけることでしょう。では彼が目指す「大新地の中で不確実な存在」を表現するにはどうすればよいでしょうか?私としてはエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン亀谷の旬報』(Yiyi:AOneandaTwo...)(LATINの題は不適切だと思うのですが…)におけるバンパーのマストに映る、一碧の映りこんだミラー板が、新地におけるはかない存在を表現しているように思えます。参考:http://ライカ.imdb.com/name/nm0945981/。

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